龍をイメージして中国から日本への文化と食の伝来(水彩画)

京ゆばと文化

精進料理、懐石料理、日々のおばんざい、として親しまれているゆば。この「ゆば」は、いつ頃生まれて、どの様にして伝わったのでしょうか。
一般的には、鎌倉時代後期、留学僧が禅と共に「宋」より持ち帰ったと伝えられています。では、大陸で生まれ、食されていた湯葉とは、どのようなものだったのでしょう。

中国から京都へ食文化とゆばの伝来の流れ(絵とデザイン)

食文化、生活文化により変化してきた 「京ゆば」 のこれからを見つめます。

ゆばの起源は「大陸の精進料理」から

ゆば(湯葉)は、おそらく豆腐を作る上での副産物として誕生したと考えられています。
では、豆腐はどのように作られたのでしょう。少し遡って、6世紀頃の大陸(南北王朝時代)では、僧侶たちは厳しい戒律により肉食が禁じられていた為、「精進料理」が発展しました。この時代の精進料理は、野菜を使って調理方法を工夫して、肉や魚の味に似せるものでした。
(精進料理と聞いて日本人がイメージする、淡白な味付けの野菜を主とした料理とは異なりますね。)
そして、9~10世紀(唐代の後期)に大豆から豆腐が発明されました。(この頃、製粉技術の進歩により、大豆だけでなく、小麦食の文化をも発展させました。)

初めてゆばを食べる僧侶(水彩画)京都ゆば長

初めてゆばを食べる僧侶

豆腐を作るため、温かい豆乳を入れていた桶の表面に自然に出来たゆば。初めて、つまんで食べてみた、 千年以上前の唐代の僧侶たちは、どんな感想をもらしたのでしょうか。
滑らかな口当たりとその豊かな栄養、乾燥すれば保存の良い点に驚いたことでしょう。

大豆


ゆばが日本へやってくる

留学僧と茶の木(水彩画)京都の食文化

留学僧と茶の木

大陸では、次の「宋」(北宋~南宋)の時代に入ると、新しい「禅」の思想が、「喫茶」と「精進料理」を結びつけました。 きっと、ゆばを使ったさまざまな調理方法も考案されたことでしょう。
12世紀後半~13世紀になると、この南宋に、鎌倉時代後期の日本からも、榮西禅師や道元禅師など多くの留学僧が渡りました。そして、新しい禅宗や中国での僧堂生活、その中での「茶」の礼法や「典座」の訓えと共に、「ゆば(湯葉)」を海に囲まれた日本へと持ち帰りました。


京の風土に育まれてきた「ゆば」

ゆば(湯葉)はその後「水の美味しい」京の都で、ゆっくりと育まれてゆきました。

平安時代より、都として「王朝文化」の中心地であった京都では、平安時代の「有職料理」、鎌倉時代の「精進料理」、室町時代の「本膳料理」と、食文化の動きをずっと見守ってきました。
特に、室町時代後期に、千利休が「侘び茶」を完成させますと、料理史上大きな変化が起こりました。「懐石料理」という、温かいものを温かいままに供する、実に合理的な形式の誕生です。
江戸時代初には、隠元禅師が京都宇治に黄檗山萬福寺を開き、明代の臨済禅と共に「普茶料理」を請来されました。その後、多くの文人達に好まれた唐様(からよう)趣味と共に、異国の精進料理として広く伝わりました。

大豆

けれど、江戸時代以降は、京都は食文化の中心ではあり得ませんでした。多くの人の暮らし、そして権力と財力の集まる、江戸(と大坂)では臨海の新鮮な海産物をも用いた料理が花開きました。対して、内陸盆地ゆえ「水」と「野菜」の有名だった京の都は、寺院では「精進料理」、家々では「野菜料理」を中心に発展します。また、従来の生け洲の川魚の他に、若狭の海より鯖街道を通って、一塩物(ひとしおもの)と呼ばれるやわらかな塩干物なども、もたらされました。それらを使った、古都としての料理は、繊細な技と盛付、そして器の美によって、京ならではの工夫を凝らすことになりました。

精進料理献立集_ゆば長蔵書

『 精進料理献立集 』 (ゆば長 蔵書)

美味しい「京の水」を使って作る「ゆば」はこうした料理様式の共存する都の文化の中で、有職料理や精進料理に、更には茶懐石で使われる食材へと展開しました。淡白な味わいだけに、どの料理法にも利用が出来て、他の素材の味を妨げないという長所があります。また、乾燥ゆばは保存が良くて軽いため、京のみならず遠国へも持ち運べるものでした。

文政2年(1819年)に刊行された料理書『精進料理献立集』では、収録された献立の多くに、ゆばが使われています。「生ゆば」「東寺ゆば」「揚げゆば」「おはらぎゆば」など、今も作っております湯葉を使って、さまざまに趣向を凝らした料理が、初春献立(壹番)より順に季節を追って紹介されています。この『精進料理献立集』では、江戸時代の食材として、既に「生ゆば」が、初春献立(三番)の中の平皿として記されております。貝原益軒の「大和本草綱目」や「養生訓」の訓えからも、生ゆばを精進料理として供するには、お出しする前にさっと煮ていたのですね。

四君子(水墨画)

油を使っての炒め料理の少なかった頃には、ゆば(湯葉)も薄いものが好まれました。薄ければ、すぐに水で戻せて、味を含ませやすいですものね。良質のたんぱく質を摂取できる、栄養価の高い、保存の出来る食材として、家庭の食卓にも「おばんざい」の一品として登場するようになりました。

第二次大戦後、空襲の被害の少なかった京都を訪れた文化人たちの目を通して、京の料理が再び見直されます。その後は物流の発達により新鮮な海産物も届き、文化都市としての総合力で大きな花をさかせるようになりました。


中国の「ゆば」・日本の「ゆば」

中国から伝わったゆばですが、日本と中国では文化背景の違いから、異なる歩みを遂げました。
今日、中国では、乾燥ゆばが主流です。中国語で「ゆば」は「腐皮」(シート状に干したもの)、「腐竹」(棒状に絞ってから干したもの)といいます。厚みがあり、硬く乾燥したものを、野菜や肉と一緒に炒め物に用いることが多いようです。
20年程前(1990年)中国に旅した折には、南部の桂林で腐竹を使った炒め物や、米の麺に入れたものを食したことがあります。しっかりした歯ごたえがあり、炒め物には柔らかな青菜が取り合せてありました。
おそらく、ゆばの誕生した頃の中国の精進料理にも、こうしたゆば(湯葉)を使って、歯ごたえのある肉や魚に置き換えられたのでしょうね。

現在、私共でも「とゆゆば」を作っていますが、こちらがそれに似ていると言えます。とゆゆばは、竹串でゆばを引き上げることを何回も繰り返すうちに、何重にも竹串に付いたゆばを取って乾燥させて作ります。
限られた量しか出来ませんし、手間もかかりますし、今ではあまり見かけなくなりました。それに、やはり日本で京ゆばと言えば、紙のように薄く繊細なイメージがありますね。その旅を思い出して、ゆばの中華風炒め物を作ってみました。


京ゆばをめぐるあれこれ

日本でも、1980年頃までは乾燥ゆばが主流でした。栄養価の高い、保存の効く食材として重宝されたからです。京都では、特に鬱金(ターメリック)で色を付けて乾燥させた「黄ゆば」を、若葉の薫る五月のお祭りシーズンには、甘く煮て、ちらし寿司の上に錦糸卵の代わりに散らしました。
(当時、生のままのゆばは、京都の料亭でのお使いと、近くのよく御存知の方々はお求めでしたが、遠方の方にはまだまだ馴染みのないものでした。)

黄ゆばを使ったちらし寿司_京都の食文化

黄ゆばを使ったちらし寿司

その後、ファストフードの流れとグルメブームにより、乾燥ゆばから生ゆばへと、ご注文はシフトして行きました。 堅くて、かみしめると風味のある乾燥ゆばよりも、口の中に入れた途端、トロリとした食感と大豆のほんのりした甘みと香りを持つ、汲み上げゆばが好まれるようになりました。
また、乾燥ゆばは、調理までに水戻しをしたり、出し汁で煮炊きするなどの手間がかかります。そして、宅配便などの流通が発達したことも大きな一因です。そんな風にして、生のままの湯葉は、京都だけでなく全国的に、ご家庭でお手軽に召し上がれるようになりました。
2010年(執筆時)の今日、再び、静かで丁寧な生活への指向から、スローフード、ロハスな生活が見直されてきました。食材を作るにもゆっくり時間がかかり、料理するにも、召し上がるにもゆっくりと、そして、ていねいに。

四君子と印(水墨画)

さて、今後は、どんな方々がゆば(湯葉)を食してくださるのでしょうか。
やわらかい生ゆばを離乳食にされたり、授乳中のお母さんが召し上がられたりなさいます。 『孫が大好きで。』とおっしゃる御年配のお客様や、小さいお子さんが、『ゆば買ってー。ゆば食べたいー。』と言っておられるのを聞くことも、しばしばございます。外国に住んでらっしゃる子供さんに送られる方、御持参なされる方、また、お客様が外国の方を店に連れていらっしゃることもございます。
召し上がられる方や調理する方の要望に応えて、また違った京ゆばの姿が現れるかもしれません。そんな風に想像しますと、ワクワクしてきます。

( このページ記載のテキストは 2010年1月12日並びに11月9日 追手門学院大学での弊社の発表に基づいております。発表の様子は、こちらの 「ゆば長つれづれ手帖」 をご覧ください。 )


ゆば(yuba)の語源

山東京伝の骨董集_ゆば長蔵書

山東京伝 著 『 骨董集 』 (ゆば長 蔵書)

「ゆば」は、一般に「湯葉」と書きますが、文化12年(1815)刊行された山東京伝の『骨董集』には次のように記されています。( 仮名で「ゆば」とだけ表記するのが最も適切だと解釈されます。)

俗説に 豆腐皮をユバといふは訛言なり 本名はウバなり
その色黄にて皺あるが 姥の面皮に以たるゆゑの名なりと
いへるは みだりごとなり 異制庭訓往来(注 江戸中期)に
豆腐上物とあるこそ本名なるべけれ 豆腐をつくるに上に
うかむ皮なれば さはいへるならん
略て トウフノハといひ 音便にハ文字を濁りてウバと
いへるより起れる俗説なるべし
ユバといふも ウとユと横にかよへば はなはだしき訛にもあらず

江戸の人々も ゆばを美味しく食べていたのですね。江戸時代に刊行された大豆の若葉『豆腐百珍』 や 『精進料理献立集』にも、工夫を凝らした湯葉料理が紹介されています。

ゆばと食文化にまつわる歴史人物たち(水彩画)ゆば長


ゆばを用いた料理文献から

1. 『豆腐百珍続編』 何必醇 原著(天明三年 1783年) 福田浩 訳

ゆばの白和え
ゆばを細く切り、罌粟味噌に豆腐を摺り合わせ、白和えにする。
(木綿豆腐を使い、しっかり水切りする。)

ゆば膾
ゆばを醤油で煮染めてから、油で揚げ、細切りにする。
大根をおろして汁を搾り、その汁に厳い酢(最も酸味の強い酢)を同量合わせる。大根の搾った身の方に、刻みゆばを混ぜ、生盛りにして右の合わせ酢を器の底へ入れる。針に刻んだ生姜を取り合わせに置く。
(ゆばは揚げるとパリッとするので細切りにしにくい。先に細切りにしてから油で揚げ、醤油でさっと煮てもよい。)

2. 『豆腐百珍余録』 風狂庵東輔 撰(天明四年 1784年) 福田浩 訳

ゆば巻豆腐
広ゆばに醤油を打ち、海苔を細かく揉み砕いて一面にふり掛ける。
豆腐の水気を切ってよく摺り、海苔の上に重ねて塗りつけ、小口から強く巻きしめて、蒸す。但し、葛練りの時は、豆腐に味つけはしない。

3. 「普茶料理」 宇治の黄檗宗 萬福寺は 普茶料理の伝統を今日に伝える寺院です。

寛文元年(1661年)明僧・隠元禅師の開山。
普茶料理とは、卓袱料理の精進版のことです。卓袱とは、テーブルとクロスを意味する中国式の料理のことで、お膳ではなく卓を囲んで食事します。
笋羮、附揚、麻腐、雲片、浸物、生盛、澄汁などの順で出ます。
ゆば(湯葉)を使って、様々に味付けして、魚肉に模して供することも有ります。(麻腐は胡麻豆腐のことです。)

参考文献
『食と日本人の知恵』小泉武夫 著 岩波書店 2002年1月16日
『日本料理の歴史』熊倉功夫 著 吉川弘文館 2007年12月1日
『和食と日本文化』原田信夫 著 小学館 2005年11月20日
『豆腐百珍』何必醇 著 福田浩 訳 ニュートンプレス 1988年7月3日
『飲み食ひの話』獅子文六 著 河出書房 昭和31年9月10日
『精進料理献立集』山音亭 著 文政2年 (1819年)
『骨董集』山東京伝 著 文化10年~文化12年 (1813年~1815年)
『京都御苑ニュース』157号京都の料理とお菓子 熊倉功夫 著 環境省 2023年9月1日

文化と食文化

みなさん
「文化」とは
如何なるものでしょうか

長い時間の中で
その地に住まう人々と
周りの人々との差異を特徴づける
固有のなにがしか でしょうか

差異を尊重し合うことで
有機的に繋がり 響きあい
更に豊かに育まれるものでしょう

「食」の文化も同じく
隣国の影響を経て なお存する
食卓の「姿」ではないでしょうか
それは その地の風土と
密接に通うものだと 感じます
地のものを享けて摂る「姿」

私たちの住む地球上には
さまざまな「食」文化があります
それら貴重な「食」文化が
それぞれの子供たちに
手から 手へ
たくましく
受け継がれてゆきますことを

食卓の風景

ゆば長